歴史の勉強 時代背景と衣服の特徴②
「飛鳥時代」〔およそAD592年~AD710年〕
天皇中心の政治が始まった時代
大陸文化が顕著になり仏教が伝わった。
時代の概要
聖徳太子が摂政(せっしょう・君主に代わっ て政を摂る役職)となり、推古天皇の時代に始まります。
隋の政治や文化を取り入れようと、小野妹子らを「遣隋使(607年~)」として遣わしたのがこの時代です。
■冠位十二階の制(603年)氏姓制度ではなく、能力のある人を役人にするとした。
■憲法十七条を制定(604年)仏教を重んじ、和の尊重、天皇中心のしくみを整えた。
■世界最古の木造建築「法隆寺」が建てられたのもこの時代です。なんと、ギリシャの建築様式を取り入れた建物だそうです。
■大化の改新(645年)聖徳太子の死後権勢をふるった蘇我入鹿が暗殺される。
■唐にならいはじめて「大化」という年号を定める。
■改新の詔(646年)大化の改新において、新たな施政方針を示すために発せられた詔(みことのり)。
■公地公民(土地と人民をすべて朝廷(国)のものとした。)
■班田収受の法(戸籍をつくり6歳以上の人民に口分田を与えた。)
■租・庸・調(新しい税を設けた。)
■庚午年籍(670年・こうごのねんじゃく)大化の改新後、中大兄皇子は天智天皇に即位し初の戸籍をつくった。
■中臣鎌足は中大兄皇子が天智天皇になってから、藤原の姓を与えられた。
■壬申の乱(672年)天智天皇の死後、皇位継承の争いで、大海人皇子(おおあまのおうじ)が天武天皇となった。
■藤原京(690年着工)地統天皇が作った日本発本格的な都。(地統天皇は天智天皇の娘で、天武天皇の皇后で、天武天皇の死後天皇に即位。)
■大宝律令(701年)を唐の律令を手本に編さんした。「律」は刑法、「令」は行政法。
■白鳳文化が大化の改新から平城京に移る頃まで栄えた。飛鳥時代に華咲いた大らかな文化をさす。飛鳥文化と天平文化の中間に位置する。
「奈良時代」〔AD710年~AD794年〕
律令によって天皇の権力がさらに強まった時代
仏教による鎮護国家思想。遣唐使の派遣。天平文化。
時代の概要
平城京に都があり、文化史では「天平時代」と呼ばれる。
仏教による鎮護国家思想が盛んになり、 国ごとに国分寺と国分尼寺を建て、奈良には東大寺を建てさせ、大仏をつくりました。
中国では、隋が(619年に)滅び唐の時代になりましたが、その後も日本から「遣唐使」を派遣しています。(平安時代の初め頃(894年)菅原道真により停止されるまで中国との交流が続いていました。)
■平城京(710年)元明天皇が唐の長安にならい平城京をつくり、都を移した。
■聖武天皇(752年)東大寺に金銅の大仏を完成させた。
■行基(ぎょうき・ぎょうぎ)布教活動を禁じた時代、禁を破り民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。
■光明皇后(こうみょうこうごう) 聖武天皇の皇后。仏教を篤く信じ、東大寺、国分寺の設立を夫に進言。貧しい人に施しをするための「悲田院」、医療施設である施薬院を建てた。
■鑑真(がんじん) 唐の高僧。朝廷の招きで日本に来るのに5度失敗し失明、6度目に成功した。 唐招提寺を建て、律宗を伝えた。
■阿倍仲麻呂(あべのなかまろ) 遣唐使の留学生として唐にわたり、唐の朝廷の役人になった。日本に帰ることができず、長安で死んだ。
■和同開珎(708年どうかいほう・わどうかいちん) 日本最初の貨幣。年号を和銅に改めた。
■三世一身の法(723年)墾田の奨励のため開墾者から三世代までの墾田私有を認めた法令である。 古い施設を利用して開こんした土地は、本人1代の私有を認めた。
■墾田永年私財法(743年)開こんした土地は、永久に私有することを認めた。 貴族や寺社が私有地(荘園)をふやし、公地公民制がくずれていった。
■天平文化(7世紀終わり頃から8世紀中頃) 聖武天皇の天平年間にもっとも栄えた、平城京を中心に華開いた貴族・仏教文化。唐や西アジア・インドの文化の影響を受け、国際色豊か。
■正倉院(しょうそういん)東大寺の正倉院には聖武天皇の遺品、唐から輸入された貴重な宝物がなどが収められています。
■古事記 (712年) 太安万侶が、稗田阿礼が暗記していた神代から推古天皇までの天皇系譜や皇室の伝承をまとめたもの。元明天皇に献上された。
■日本書紀(720年)完成。神代から持統天皇に至る天皇中心の国家成立史。 舎人親王・太安万侶らが中心になって編さん。
■風土記(713年)天皇が諸国に命じて、その国の地名の由来、伝説、特産物などを記録させたもの。
■万葉集(759年~) 大伴家持が編者といわれる日本最古の歌集。 山上憶良・柿本人麻呂などの歌人のほか、天皇から農民にいたるまで、約4500首の歌がおさめられている。
■貧窮問答歌(びんぐうもんどうか、ひんきゅうもんどうか) 山上憶良がつくった歌で、「万葉集」にある。 律令制度下の、貧しく苦しい農民の生活をうたっている。
※正倉院の由来:奈良・平安時代の中央・地方の官庁や大寺には、重要物品を納める正倉が設けられていました。そしてこの正倉が幾棟も集まっている一廓が正倉院と呼ばれたの です。しかし、あちこちに置かれた正倉は、歳月の経過とともにいつしか亡んでしまい、わずかに東大寺正倉院内の正倉一棟だけが往時のまま今日まで残っりました。すなわちこれが、正倉院宝庫です。
飛鳥・奈良時代の服装の特徴
高松塚古墳の「飛鳥美人」から窺えるように、女性の衣服はひざ下までと長く、袖幅もゆったりしていて、肩にはスカーフのようなものをかけていたようす。男性は頭に冠をかぶり、詰衿式の長い袍(ほう)を着て、袴をはいていた。
719年2月3日、元正天皇が「衣服令」を発令。衿合わせが現在と同じ右を手前にあわせる「右衽着装法(うじんちゃくそうほう)」が用いられるようになった。