歴史の勉強 衣服の変化 古墳~飛鳥・奈良時代
弥生時代(おさらい+身分の違いについて)
農耕の生活がはじまった弥生時代には、
女性が「衣裳(きぬも)」、男性が「衣褌(きぬばかま)」を着るようになりました。
この時代に既に、身分の違いがあった様子です。
以下「弥生ミュージアム」さんより抜粋
弥生人の服装も日常着と結婚式などハレの日の正装によって異なり、また身分の上下によっても違いがあったと想像できます。
こうした想像に具体的なイメージを与えてくれるのが、吉野ヶ里遺跡の甕棺墓から出土した絹織物です。この甕棺墓は富裕層に属する人物を葬ったものと考えら れ、布には袖を縫い合わせたと考えられる部分が残っていました。これにより、貫頭衣とは構造が異なる袖付きの衣服を弥生時代の富裕層が着用していたことが 明らかになりました。~中略~
弥生時代の後期後半の織物技術は吉野ヶ里など一部ではこれまで考えられているより高度で、そうした地域に住んだ上位身分の人々の正装は袖付で赤や紫に染められた鮮やかな絹であったと思われます。
抜粋以上。
おさらいが長くなってしまいました。
古墳時代
続いて古墳時代に入ります。天皇をはじめ、勢いのある豪族たちがたくさんの古墳をつくりました。中国や朝鮮とも盛んに交流していましたので、服装にもそのような変化が見られます。
※絵は「きもののたのしみ 改訂版」(社)全日本きもの振興会編 発行㈱世界文化社 より
この時代の衿あわせは左前。これを「左衽着装法(さじんちゃくそうほう)」といいます。
(現代の和服の着方と反対のあわせ方です。)
飛鳥・奈良時代
聖徳太子の時代ですね。「遣隋使」を送り大陸との交流がより顕著になるのが飛鳥時代。
奈良時代は、平城京に都がうつり、仏教による鎮護国家思想が盛んになります。「遣唐使」を送り中国との交流は続きます。
服装も中国の影響が顕著になります。
※絵は「きもののたのしみ 改訂版」(社)全日本きもの振興会編 発行㈱世界文化社 より
高松塚古墳の「飛鳥美人」から窺えるように、女性の衣服はひざ下までと長く、袖幅もゆったりしていて、肩にはスカーフのようなものをかけていたようす。男性は頭に冠をかぶり、詰衿式の長い袍(ほう)を着て、袴をはいていました。
719年2月3日、元正天皇が「衣服令」を発令。衿合わせが現在と同じ右を手前にあわせる「右衽着装法(うじんちゃくそうほう)」が用いられるようになりました。
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昔の一万円札は飛鳥時代の聖徳太子でしたよね。確か、こんな服をお召しでいらっしゃいましたね。
この時代、様々な法律がつくられ、耕した畑は誰のものになるとか思考錯誤しながら政治が行われた様子がうかがえます。
ということは、身分の差がはっきりしていて、農民としての暮らしをしていた人々が確かにいたということです。
農民がハレの日だからと言って、このような服装をしたとは考えにくいです。
つまり、日本の衣服の歴史を学ぶという時の勉強で教えられるのは、上流階級の衣服の変遷ということになるのではないでしょうか。
このあたりが、今の着物文化(教育)の誤解に通じる理由の一部になっているように、私は感じます。
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